my feelings, my attitude
自分が今どんな状態か。
それらは全て、私が物事をどう捉えるかで決まる。
独立した物事。それに意味を与えるのは、私。
そして、どんな意味を与えるのかは、
私が私にどういう評価をつけているかが、反映される。
友達に無視された。
それにどんな意味づけをするか。
もし私が、「私はいじめられる人間」と思っていて、
「いじめられる人間なんて価値がない」と思っていたら、
その出来事は、私にとってとても辛い出来事になるだろう。
一方、もし私が、「私は素晴らしい人間」と思っていたら、
その出来事は、単に私の声がたまたま聞こえなかっただけだろう、みたいに、
なんの意味もなさない位の、ちっぽけな出来事になるだろう。
さらにその意味づけは糸を引いて、
「私はいじめられる人間」と思っていると、
友達に無視されたという出来事から、
やっぱり私はいじめられるんだ、と思い、萎縮し、自己主張のできない、いかにもいじめられっ子の様な行動を自らしていく。
「私は素晴らしい人間」と思っていたら、
友達に無視されても、これからの行動になんの影響も及ぼさないだろう。
前提の、自己評価。
これが、私たちの行動の根本にある。
また、例えば、親に進路に関して意見を言われる。
もし、私が、「どうせ私は夢もなく、つまらない出来損ないだ」と思っていたら、
過干渉だ!親に反対される。応援してくれない。なんてひどい親なの!と嘆くだろう。
一方、私が「私は夢があり、幸せな人生を送る人間だ」と思っていたら、
親も心配してくれている。もっと頑張ろう。人生の先輩としてのアドバイスだ、ちゃんと聞こう。
と思うだろう。
でも、無理やり、私は素晴らしいとか、価値のある人間だ、なんて、思わなくていいと思う。そんなの、私には無理。心からそんなビッグなこと言える人なんているのだろうか。
そうじゃなくて、「私は何があっても大丈夫」くらいでいいんじゃないかな。
私は何があっても大丈夫。
友達に無視されても大丈夫。
いじめられても大丈夫。
親に認められなくても大丈夫。
親に怒られても大丈夫。
だって、大丈夫でしょう。
いじめられたから、何?
親に認められないから、何?
私の価値に傷がつくとでもいうの?
いいえ、つかない。
なんでかというと、私が傷をつけないから。
誰に何をされても、最終的に自分を卑下して、傷つけられるのは私だけ。
私が傷つけなければ傷つかない。
そもそも人間の価値なんてものは、そんなのない。
誰が決めるの。誰の評価が正しいの。
そもそも、人間っていうのは、価値をつける様なものじゃないってこと。
評価の対象にもならないってこと。
コンテストの出場者ではないってこと。
良し悪しがあるものではないってこと。
人と比べることもできないってこと。
私の価値。そんなものは存在しないってこと。
そもそも、ね。
だから、何があっても大丈夫なのだ。
私は大丈夫なの。
私は傷つかないの。
だから、
私は素晴らしいの。
自信があるの。