Hello, myself

自分と向き合う。そう決めました。少しばかり、そのプロセスにお付き合いください。

「辛い時も、笑っていれば大丈夫」なんて、本気で言ってる?

バカじゃないの?

辛い時に、人生のどん底にいるような気分の時に、

「笑え」なんて

 

 

笑えるんだったら笑ってるわ。

 

笑おうとすることすら、間違ってるような気分なんだわ。

 

笑いたくもないんだわ。

 

 

みんな、こんなバカみたいなポジティブ発言、聞いたことあると思うけど、

確かにその時は「もしかしたら笑っていればいいだけのことなのかもしれない」

「笑顔が最大の特効薬なのかもしれない」

って思うかもしれないけど、

 

「フザケンナ」って一方で思う時もあると思う。

 

 

私が言いたいのは、

 

辛くても、いいってこと。

辛い出来事があって、気分が沈んで、生きていけないような気がしても、

いいってこと。

 

そう思うことは許されてるってこと。

 

悲しくてもいい。

愛されない気がしてもいい。

寂しくてもいい。

屈辱的でもいい。

 

マイナスな感情を感じてもいい。

静かに、感じてみる。

 

でも、そのせいで、「私はその程度の人間だ」

なんて自分をジャッジしないで欲しい。

自分を卑下しないで欲しい。

 

そこは、自分で止められるところでしょ。

だって、私は自分のこと大好きなんだから。

自分が何より大事なんだから。

自分を辱められると、何よりむかつくんだから。

 

他人に何かされても、

そのせいで自分で自分の評価を下げる必要なんてない。

そうでしょ?

 

be true to myself

 

それで、自分のその感情を、隠さずに他人にも話せたら、間違った方向にはいかないと思う。

 

親の期待に応えたい。

でも、思うようにいかない。

私、辛い。

 

そんなとき、親に「私辛いの」って言えたら、どんなに楽か。

「お母さんを心配させたくないの」

「お母さんが誇りに思えるような私でいたいの」

「私、お母さんの思うような出来のいい子じゃないの」

「だから私、辛いの」

って、言えたら。

 

もし私が母親で、子供にそんなこと言われたら、

「そんなに頑張らなくていいよ」

「そのままで十分誇りに思ってるよ」

「出来のいい子供なんて求めてないよ」

「私のせいで辛い思いをしないで」

って言うと思う。

言ってあげたい。

 

 

 

 

 

 

 

本当に私が欲しいもの。

お金が欲しい。

いい車が欲しい。

いい家が欲しい。

可愛いバッグが欲しい。

素敵な服が欲しい。

 

それを得た先には、何があるのか。

 

世界中の物という物、全て手に入れらる。

そうなった時、私は何を求めるのか。

 

欲しいもの、全て、完全装備して、どうしたいのか。

 

プライベートジェットで、友達と地中海の綺麗な島にでも行って、ガーデンパーティーして、

可愛い服着て、素敵な彼氏を作って、

子供が生まれて、温かい家庭を持つ。

 

例えば、こんな感じ?

 

私は気づいた。全ての求める体験に、「人」が伴うってことを。

さっき書いたようなことをするには、

一緒に地中海の島に行ってくれる友達がいなきゃダメだし、

愛を誓ってくれる恋人もいなくちゃダメだし、

母親として慕ってくれる子供もいなくちゃならない。

 

その「人」たちがいないと、全て無意味だってこと。

 

というか、私は他の物なんてどうでもよくて、

ただ、「人」を求めているのかもしれない。

 

人とわかり合ったり、愛を誓い合ったり、

そんなことが、私の求めていることなんだろう。

 

私たちは、関わってくれる「人」を

純粋に求めていかないといけない気がする。

お金を経由せず。

 

「人」を求めて、そのためにお金が必要だったら、お金は入ってくるだろう。

 

愛してる人に、愛してるって言いたい。

 

Netflixドラマ「13の理由」を見た②

 

「自分に正直に生きる」

これをどれだけの人が実行できているのだろう。

 

普段、どれだけの自分の感情を、否定しているのだろう。

よくわからないけど、自分が確かに感じていることを、

うん、自分はこういう気持ちだって、受け入れられないことがある。

 

惨めな気持ち。

寂しい気持ち。

 

こんなやわな人間じゃないって、なぜか自分で自分に強がって、

そして周りの人にも強がって、

で、苦しくなる。

 

自分の弱さを認められないと、苦しいの。

弱さを認める、ただそれだけなのに、

その自分の弱さを見ないようにするために、

とっても苦しい思いをしていたりする。

 

なんでだろう?

認めちゃうと楽なのに、なぜだろう?なぜ強がっちゃうのかな。

 

 

私には一つの結論があるの。

 

「私を傷つけられるのは、私だけ」

「私を辱めるのは、私だけ」

 

もし、誰かにひどいことされても、その時点ではまだ私は傷ついていない。

自分で「私はこんな扱いをされる人間だ」って、自分をジャッジしてから、

初めて「私」は傷つく。

 

言ってやればいいのよ。クソヤローって。

 

誰も私を理解してくれない時、

「私は理解されない人間だ」

「私は誰にも思いやってもらえない」

「私はそんな無価値な人間だ」

こうやって、自分で自分をジャッジして、

初めて自分を傷つける。

 

自分で自分を理解していれば、十分。

 

でも、自分で自分を理解するのって、結構大変なんだけどね。

 

このドラマ、「13の理由」を見て、

自殺した子がそれを知っていれば、自殺なんてしなかったんじゃないかなって、思った。

 

でも、実際その子と同じ扱いを受けたら、

私はどうするのか、それはわからない。

 

特にレイプされた時の気持ちなんて、

正直、想像もできない。

 

その時、「私はそんな扱いをされる人間だ」って思わずにいられるのか、

わからない。

 

Netflixドラマ「13の理由」を見た

誰でも、「死にたい」って冗談でも言ったことがあると思う。

それって、冗談なんだけど、100%冗談かって言えば、

実際ここで死ねたら、どんなに楽なんだろうって思うことがあるはず。

 

明日テストなのに全く範囲に追いついてない。

進路どうしよう。

親の期待に応えられない自分が情けない。

仕事が嫌だ。

彼氏と別れた。

 

だらしない奴だって思われる。

どうせ誰にも愛されていない。

もうどうでもいい。

逃げ出したくても逃げられない。

親に心配かけるわけにはいかない。

 

そんなこんなで、今死ねたら、どんなに楽だろうって、思う。

ずーっと心の底まで辿ると、正直言って、本気で思ってる。

死にたいって。

 

でも、それを実行に移す勇気があるかとか、

周りの人を悲しませてまで、そうしたいかとか、

かなりの大ごとになるってこととか、

色々あるから、実行しようなんて軽い気持ちでは思えないよね。

 

でも、どうだろう。

死ぬのが全然苦しくなくて、

ゲームのリセットボタンを押すみたいに、楽に死ねるとしたら、

死ぬのがタブーだと思われてないとしたら、

この世界のどれくらいの人が、死を選ぶのだろう。

 

まあ、現実、死は痛くて苦しくて、

ゲームのリセットボタンに例えるわけにはいかないんだけど。

 

とにかく、死にたいって感情、そんなマイノリティじゃなくて、誰もがメジャーに持っている感情だと思うんだよね。

 

自分でもその感情を直視しちゃいけない気がして、

その感情を持っていることを認めちゃいけない気がして、

否定してるけど。

 

そうやって、生きてる。

死を否定して、生きてる。

 

私は大丈夫。死にたくなんてない。いつかはいいことがある。

 

こうやって、生きてる。

 

苦しいよね。生きるのって。

全部が楽しいことじゃない。

この先どうなるかもわからない。

 

テレビで誰かが言っているのを聞いたことがある。

生き抜くことに意味があるんだって。

生きる意味とかじゃなくて、

最後まで生き抜くことに意味があるんだって。

 

辛いこととか、苦しいこととか、たくさんあるけど、

幸せなことも、生きていてよかったって思うことも、

少なく感じるだろうけど、でもそういうこともあって。

 

生き抜くことに意味があって、

最後まで生き抜いてみて、初めてわかることがある。

きっとそうなんだろうと思う。

 

what i want

もし嫌われないとしたら、どうしたいの?

 

好きな人に、ぎゅーっとハグする。

くっつく。

 

もし失敗しないとしたら、何したいの?

 

世界中の、困っている人たち、無下に扱われている人たち、貧困に困っている人たちを救いたい。みんなが幸せになる方法を探したい。

 

もし、お金がたくさんあって、働かなくてもいいとしたら、何したいの?

 

寝たい。美味しいものを食べたい。映画をたくさん見て、本読む。

1人でじゃなくてね。

愉快な仲間たちと、一緒に過ごして、

でも多分ひまだよね。なにもやることがなかったら。旅でもするかも。

 

ほんとに、どうしよう。

働く必要がなかったら、なにする?

 

生まれながらにお金持ちなひとって、どういう感覚なんだろう。

そういう人を参考にしてみようかな。

 

お金あげないよって言われても、

その仕事しますか??

 

お金あげないよって言われても、楽しくやっちゃうことってなんだろ。

 

私の場合は、

英語の勉強。

映画を見ること。

本を読むこと。

部屋の模様替え。

ショッピング。

メイク。

海に行くこと。

自分のイメージを膨らませること。

 

 

 

my feelings, my attitude

自分が今どんな状態か。

 

それらは全て、私が物事をどう捉えるかで決まる。

独立した物事。それに意味を与えるのは、私。

 

そして、どんな意味を与えるのかは、

私が私にどういう評価をつけているかが、反映される。

 

友達に無視された。

それにどんな意味づけをするか。

もし私が、「私はいじめられる人間」と思っていて、

「いじめられる人間なんて価値がない」と思っていたら、

その出来事は、私にとってとても辛い出来事になるだろう。

 

一方、もし私が、「私は素晴らしい人間」と思っていたら、

その出来事は、単に私の声がたまたま聞こえなかっただけだろう、みたいに、

なんの意味もなさない位の、ちっぽけな出来事になるだろう。

 

さらにその意味づけは糸を引いて、

「私はいじめられる人間」と思っていると、

友達に無視されたという出来事から、

やっぱり私はいじめられるんだ、と思い、萎縮し、自己主張のできない、いかにもいじめられっ子の様な行動を自らしていく。

 

「私は素晴らしい人間」と思っていたら、

友達に無視されても、これからの行動になんの影響も及ぼさないだろう。

 

前提の、自己評価。

これが、私たちの行動の根本にある。

 

また、例えば、親に進路に関して意見を言われる。

 

もし、私が、「どうせ私は夢もなく、つまらない出来損ないだ」と思っていたら、

過干渉だ!親に反対される。応援してくれない。なんてひどい親なの!と嘆くだろう。

 

一方、私が「私は夢があり、幸せな人生を送る人間だ」と思っていたら、

親も心配してくれている。もっと頑張ろう。人生の先輩としてのアドバイスだ、ちゃんと聞こう。

と思うだろう。

 

でも、無理やり、私は素晴らしいとか、価値のある人間だ、なんて、思わなくていいと思う。そんなの、私には無理。心からそんなビッグなこと言える人なんているのだろうか。

そうじゃなくて、「私は何があっても大丈夫」くらいでいいんじゃないかな。

 

私は何があっても大丈夫。

友達に無視されても大丈夫。

いじめられても大丈夫。

親に認められなくても大丈夫。

親に怒られても大丈夫。

 

だって、大丈夫でしょう。

いじめられたから、何?

親に認められないから、何?

 

私の価値に傷がつくとでもいうの?

いいえ、つかない。

 

なんでかというと、私が傷をつけないから。

誰に何をされても、最終的に自分を卑下して、傷つけられるのは私だけ。

私が傷つけなければ傷つかない。

 

そもそも人間の価値なんてものは、そんなのない。

誰が決めるの。誰の評価が正しいの。

 

そもそも、人間っていうのは、価値をつける様なものじゃないってこと。

評価の対象にもならないってこと。

コンテストの出場者ではないってこと。

良し悪しがあるものではないってこと。

人と比べることもできないってこと。

 

私の価値。そんなものは存在しないってこと。

そもそも、ね。

 

だから、何があっても大丈夫なのだ。

 

私は大丈夫なの。

私は傷つかないの。

 

だから、

私は素晴らしいの。

自信があるの。

 

go away, mom

親の過干渉。

 

無理やり髪を切らされた。

自分の意思は尊重されないんだと感じた。

私の気持ちに耳を傾けてくれなかった。

 

心配が、うざかった。

 

 

これもそれも全部、言い訳に過ぎないのだろうか。

私が何もできない理由。

親のせいにしてるだけなのかな。

 

いつも足かせがあって、自分は自由じゃないって思ってた。

親を心配させる様なことはできない。

親が認めてくれる様なことじゃないとできない。

だから私は何もできないんだよ。

こんだけしかできないんだよ。

 

そうやって、言い訳を作っていたのかもしれない。

 

ビクビクしてるの。親に否定されたくなくて。

愛してるんだもん。それくらい好きなんだもん。

 

だけど、それが裏目に出て、愛が恨みにつながってしまうという皮肉ね。

 

愛してるが故に、自ら縛られてしまう。

そして自らを不幸に仕立て上げてしまう。

そして恨む。

 

そのループから抜け出さないといけない。