Hello, myself

自分と向き合う。そう決めました。少しばかり、そのプロセスにお付き合いください。

哲学とは 〜須藤凜々花さん「人生を危険にさらせ!」〜

AKB総選挙で電撃結婚を発表した須藤凜々花さん。

話題になりましたね。批判的な意見も多いようで。

 

私は、結構、このようなみんながありえない!と思うようなことを、やってのける人って、好きなんです。

違う例でいうと、沢尻エリカさんとか、国会議員上西小百合さんとか。

別に。とか言っちゃう。

めちゃくちゃ神経を逆なでするようなことツイッターで言えちゃう。

とかね。

 

なんでかっていうと、少なくとも、「正直さ」を感じるからかな。

だって、みんな何かしら、こう思われるからやめよう、とか

空気を乱したくないって思うでしょう。

 

でも、それって、本当に、他人への気遣いなのか?

 

それって、単に、よく思われたい自分、というのが、いい子ちゃんの仮面をかぶって出てきているだけなんじゃないのか。

 

単純に、自分への愛なのだ。

もちろん、自分を愛することは大事だけど、

そこに、他人への嘘を使って、自分への愛を表現するというか、

やり方がひねくれていると思うのです。

 

自分を守りたくて、自己愛ゆえに、他人によく思われようと、自分を犠牲にする。

自分を犠牲にして自分のことを愛する。

それってとても大きな矛盾を含んでいますね。

 

それで自分の中の矛盾を抱えきれなくなっていく。

苦しくなっていく。

 

自分を大切にしたいのに、犠牲にしてる。

なんでーー?

やり方間違ってるからや。

自分を大切にする方法が自分を犠牲にすることって、なんやねん。

 

そこに、他人からの評価が自分の価値を決めるっていう、どうしようもない考え方があるから、そうなるんですけどね。

 

「他人からの評価」っていう、

自分の力ではどうしようもないもの

相手が相手の都合で適当に起こす反応

によって自分の価値を決めようなんて、不安定すぎるやろ!!

 

自分の価値は、自分で決めればいい。

そもそも、価値なんて概念もいらないはず。

じぶんはそれ以上でも以下でもないし、誰かと比較できるものじゃないんだから。

 

・・・・という、私が惹かれる芸能人から、

ここまで思考が広がりました。

 

そして今、

須藤凜々花さんの本、「人生を危険にさらせ!」を読んでます。

初頭に、

哲学者とは、愛知者であるっていうことが書いてあって、

自分が知らないことを知っていて、その知を渇望してる人なんだよー

て書いてました。

渇望している状態がいつまでも続くって、苦しそう・・・と思ってしまいました。

 

私がいくつかの心理書を読んで学んだことの中に、

「望んでいるうちは手に入らない」

というのがあります。

「欠乏」が前提として、「欲しい」と思っているから、

その対象を手に入れても、その欠乏感は他の対象に移るだけで、欠乏は無くならないのです。

 

あ、でも哲学は、その「知」を永遠に知らない。その知を求めていく旅みたいなものと思えばいいのか。

物質のように、手に入れて満足して、また次のものを欲する、みたいなことにはならないのか。

 

うーん。ま、変に難しく考えすぎてますね。

 

人生についてうーんうーんと考えてみて、

でも、ま、どうでもいっか!ってなるのがオチです。

 

そう、どうでもいいんです。

でも、考えた上でどうでもいいやー!ってのと、

何にも考えないでどうでもいいやー!って、

それまた違うというか。

 

やっぱり人間は考えるのをやめられないのでしょうか。

楽しいですね。(やっぱ人間めんどくさい)